東日本大地震被害状況調査
- misima
- 2024年8月10日
- 読了時間: 10分
更新日:7 日前

2011年3・11の東日本大震災から12年が経った。地震災害というより津波による甚大な被害があり、福島の原子力発電所事故についてはまだ解決は程遠いと言わざるを得ないが、原発に起因するもの以外の復旧についてはほぼ大きな事業は収束したのではないかと思われる。過ぎていく月日の速さに驚きつつ、私は耐震総合安全機構の企画する第18次東日本震災被害復旧状況調査に参加した。
実は、私は震災の初期に復旧工事に携わったことがあり、その時の経験を思い出ししつつ、ここに報告したい。
なお復旧工事に携わりながらも現地往復に帰還困難地域を横切ることがあった。そこを素通りして復興はありえないと当時我々は強く思ったものだが、本編では除くことにしたい。
「復興を助けに行こう!」 |
12年前の、あの大震災の日から3ヵ月が経った日、突然私の事務所の電話が鳴った。それは、私の郷里・岡山の建設会社からの「一緒に復興に行こう!」という誘いだった。「建築部隊は岡山から送るから、設計の方をやらないか、」とのこと。かつて阪神淡路大震災の時には何もできなかったという反省もあり、私は二つ返事で引き受けた。
岡山からやって来た建築部隊に、東京から私が加わって向かった先は、宮城県の塩竈港だった。瓦礫の山は整理されつつあったが、港に近づくと陸中に取り残された大きな漁船が船腹を見せて横たわる姿があった。津波の力に驚く。海岸を巡る仙石線の高架下を潜って港湾内に入ると突然視界が開けた。案内されたところは、津波に流されずに残った大型建物の、そのさらに奥にぽっかりと空間が広がっていた。建屋の基礎構造の一部が露出し、地面は掘り起こされ、或いは削られたようにうねり、そのまま海に繋がっているように見える。ずいぶん海面が近いと感じて尋ねると、70センチほど沈下したらしいとのことだった。
そこで私が取り掛ったのは、津波に流された「かまぼこ工場」の再建だった。単に建屋を復旧するのではなく、また人を呼べるようにしたいという。それは大きなダメージを受けて死に体となっている街に復興の呼び声となることでもある。その場所は行政の定める建築制限を受ける区域(当時民間の先行する勝手バラバラな復旧工事を禁じる区域が定められていた)からきわどく外れていて、この工場の再建計画は他のどの再建計画よりも先行しているのではないかと思った。我々は一日でも早く復旧したいと思った。
幸いだったのは、建屋が流されているにもかかわらず、かまぼこを作る設備のラインの相当部分が残っていて、盛夏の青々とした草むらの中に集められており、これらをつなぎ合わせば使えそうだという。地元の協同組合の助けを受け、我々はあちこちの類似の工場や稼働可能なラインを見学した。汚染を防ぐための与圧の仕組みが導入されていた。求められるものは単なる復旧ではなかった。それは新工場であり、さらに、新たに観光バスを入れるという復興への新企画を加えて、徐々にその形が見えてくる。
完成した工場の姿 心なしか寂しさはぬぐえない。 |
ただし、津波後にして一切の参照すべき建屋の記録、情報が流出していて設計は容易ではない。敷地も、道路も、どこが境界か分からない。とりあえずここら辺りと思えるところに当たりをつけて、建屋の位置や大きさを測った。あれこれ構造を考えたが、鋼材が手に入るかどうかどうかわからなかった。観光バスを入れるプラニングには、製造ラインを覗き見ることができるような売店を設け、海も見えるように考えた。しかし、実際にはなかなか進まなかった。
その中で、ひとつ今振り返っても思い出すたびに心がほっこりするものがあった。それは言葉だった。
私が東京に帰る時間を気にして焦っているのに、なかなか話がまとまらない時、太陽がすでに山の端に隠れた薄暮の中、そこで驚いたのは岡山からやってきた岡山弁を話す建設部隊は、なんと塩竈弁と話が通じているということ。“ぼくとつ”としたズーズー弁に少しも負けずに岡山弁で対抗している。「ホーホー、ホーホー、」とゆっくりと抑揚を効かせ、言葉よりもむしろ音のリズムが似ていることが重要で、そうすると心は通じる。私も昔は岡山弁だったが、東京に来て暮らすうちに知らず早口になりイライラしているのに気が付いた。
ただ、今思うと「復興」という目標で言うなら、実はこの時から負けつつあったかもしれない。はじめに街区の基本計画なければ、我々は一歩も進めないということが分かって来た。都市の再建の要は行政である。当時の政権がこの災害に際しての断固として復興に臨む力が弱かったと言わざるを得ない。
ひとつ例を上げると、例えば地盤を嵩上げをするのかしないのか。地盤の高さが決まらなければ、道路の高さが決まらず、仙石線のガード下を潜る大型トラックのアプローチが工場で使えるのかどうか分からない。目の前の港の護岸整備もやるのかやらないのか。民間では何も建てることはできない。
そうこうしているうちに、徐々に震災後の混乱した状態は収束して行き、非日常が日常へと移行し、ついに私の役割は地元の後進にバトンを渡すことになった。そうしてかまぼこ工場の建屋は建ちラインは稼動した。ただ、その後もこの地域は10年にわたって余震に悩まされた。地震の影響はその瞬間だけでないことが明らかになっている。
肝心の復興は道半ばである。当時、建築部隊が思い 描いた姿はまだ夢の中だ。護岸整備は工事中であり、現在も港湾の一帯にはアキ地が目立つている。
12年目の東日本震災復旧状況調査 |
その後、私は耐震化を促進するJASOの活動に加わるようになり、今回初めてこの第18次東日本震災復旧状況調査に参加した。この調査は震災の直後から有志により継続的に行われている。今回は三陸海岸の宮古市から八戸までを対象として行われた。
ホテル羅賀荘での会食時、震災当時の様子を仲居さんに語ってもらった |
ただ、私は塩竈において震災の直後に発した復興の掛け声が、12年を経て、今や静かに印象から遠ざかって行くのを見ているので、むしろ復興事業の収束点を探るつもりでいた。しかし、実際に訪れてみると決してそうではない。実は課題はこれからだと知らしめられた。感銘を受けたこともあり、よい機会なので報告します。
ホテル羅賀荘の姿 3階の大浴場まで津波が来たという。 |
ひとつは、それは岩手県宮古市より少し北上した田野畑村で宿泊したホテルの仲居さんで、「語り部」とも紛う方のリアルなお話が聞けたこと。その仲居さんは、決してホテルの用意ではなく、我々が被災地の調査に来ていることに聞き及び、自発的にご自身の経験を語ってもらえたものと思う。もう何度もこうして津波を語っているうちにある種の講和の才能も身についてのこと。彼女の内側より伝わってくる言葉の重みは心を打つものだった。
リアス式海岸の切れ込みの奥に小さな港があり、そこに近代的な10階建ての「ホテル羅賀荘」がある。彼女の話はでは、あの津波がやって来た時、3階の大浴場にまで水位は達し、その時ホテルの壁が抜け、津波の圧力はホテルの下階層を通過して行ったとのこと。
その時、彼女は初めたいへん動揺したそうだ。何をしたらよいか体が動かない。しかし正にその時ホテル支配人の適切な働きかけがあり、彼女たちは勇気を奮い起こして泊り客を安全に逃がすことができた。津波の直撃に襲われた港に立地するホテルながら、 全員の命を救うことができたという。その時の支配人の決断があったことが大きい。その時の彼女の投げかけた言葉はどうだったのか。 他のところではリーダーの力量不足に起因して失われた命があったと聞くが、ここには救われた泊り客の尊い奇跡があったわけだ。
明戸海岸防潮堤震災遺構 |
ところで、「ホテル羅賀荘」は、今も津波に対してまるで無防備に佇んでいる。入り江を巡る防波堤は低いままである。
すでに日本中に知られているが、三陸海岸の各地に高さ10mにおよぶ防潮堤が実に数百キロにわたり計画され、総予算は1兆円に達すると言われる。私が携わった塩竈の少し北にも、巨大防潮堤が数キロ続いているところがある。あるいは街の地盤面を防潮堤の上にまで高く嵩上げしたところもある。これに比べ、防御しないままに海辺に佇む姿は、観光ホテルの在り方としてのその選択に感嘆する。
彼女たちが平気なのは、一度うまく津波をいなせたので次も大丈夫だろうと考えているのかもしれない。海との視覚的なつながりを切るような愚を侵さなかったからこそ、このホテルの復興が成ったのは間違いないことだろう。(防潮堤を拒否した地町村は他にもありここだけが特別ではない)
震災の伝承館が伝えるもの |
もうひとつは、今回多くの伝承館・資料館を巡ったことによるもの。伝承館は津波被害の教訓を未来に残す施設として各所に設けられている。震災遺構をシンボルとするジオパークもあった。
立ち寄ったところは、震災メモリアルパーク中の浜、島越ふれあい公園、明戸海岸防潮堤遺構、野田村復興展示室など。いずれもよく工夫された展示がなされていた。震災遺構に出会う時、訪れた者は想像を超える驚きを覚える。伝承館に復元された失われた街並みのジオラマにはいとおしさすら感じられた。
しかし、言い表し難いけれども、私はそれぞれに同じような思いを感じた。課題を突き付けられている。それは、正に復興はどうしたのかとの問いかけである。おそらくやはり風化して行くのではないか。多くの記憶を留めてもなお尽きぬやるせなさ。
例えば私なら、岡山からやって来た無償の建築部隊に思いが繋がる。それは無償ではないかもしれないが、しかし日本中の何とかしたいという思いがそこに集中したのではなかったか。復興はもちろん被災した地元の人たちのものだが、それでもあの時、はるばる岡山からやって来た建築部隊はいろいろ考えたし議論もした。建物は造った先を考えるのは当然。目指した復興とは何なのかと。
伝承館に防潮堤の可否の議論は展示されていなかったと思う。防潮堤を築いた先に街はどうイメージされていたか。防潮堤の後ろ側にはただ静けさがあって、復興した街並みを見ることはなかった。
久慈地下水族館の地下入り口 167万キロリットルにおよぶ 巨大石油備蓄基地がこの背後にある。 |
八戸の少し南にある久慈に、久慈地下水族館があり、その中に防災展示室がある。実はここは震災よりずっと前、1997年に作られた巨大地下施設「国家石油備蓄基地」の一部を間借りしているもので、地下水族館などと共に地上にもその一部を建築しているものだ。最後にここに触れておきたい。
久慈が国家プロジェクトとしての石油備蓄に選ばれたのは地政学的な理由によるものだが、地下に巨大なトンネルを掘り、日本の3日分に及ぶ石油を備蓄している。この地下トンネルの一部を利用し、水族館と共に震災を伝える伝承館としての施設を加えている。ジオパークとしての巨大な地下構造を覗き見る時、そこに体験できるものにリアリティがあって、科学がうまく組み込まれていると思った。
観光資源の基礎に実態としての石油備蓄基地があり、また地下水族館がある。その上に伝承と観光の両輪を嚙合わせようとした試みが評価されると思う。三陸海岸の復興には観光の力が欠かせないと言われるが、さらに磨きをかけてもらいたいと思った。
そう思いながら、調査の旅を終わりにした。
JASO会員 三島直人
*JASO「耐震総合安全機構」は、耐震化を推進する活動を行っている。名前にある通り、総合的観点から耐震を考えることを推奨する。それはただ建物だけが残っても仕方がないということ。そこにこそ心血を注ぎたいと思う。
Comments