12年目の震災復旧状況調査報告 (抜粋)
2011年3月11日の東日本大震災からはや12年余りが経った。東北地方から関東地方にかけての太平洋沿岸に津波による甚大な被害があり、福島の原子力発電所事故による帰還困難地域の存在はいまだに言い尽くし難い。しかし被災地全般については、復旧・復興はすでに一応の収束点を迎えていると思われる。
かつて私は震災後の復旧工事に設計者としてかかわった時、この帰還困難地域を横切ることがあった。この地域を語らず震災を語ることはあり得ないと思うものだが、本稿では論旨が異なり省くことにしたい。
今回私はJASO「耐震総合安全機構」の第18次東日本震災被害復旧状況調査に参加したので、その印象と共に震災後に携わった復興事業について報告したいと思う。JASOは震災直後から有志による震災の復旧状況調査を継続的に行っている。今回の調査は、三陸海岸の宮古市から八戸までを対象として行われることになった。以下、私の所感を含めながら報告したい。
<宿泊したホテルの仲居さんの話>
少し変則的な報告になるが、「ホテル羅賀荘」の仲居さんの話から始めようと思う。
ホテルでの会食時、震災当時の様子を仲居さんに語ってもらう機会を得た。岩手県宮古市より少し北上した田野畑村で宿泊したホテルの仲居さんで、「語り部」ともまがうほどのお話であった。彼女は我々が被災地の調査に来ていることを聞き及び、自発的にご自身の経験を語っていただいたものと思う。もう何度もこうして津波を語っているうちにある種の講話のすべも身につけてのこと、彼女の内側より伝わってくる言葉の重みは心を打つものだった。
リアス式海岸の切れ込みの奥に小さな港があり、そこに近代的な10階建ての「ホテル羅賀荘」がある。彼女の話では、あの津波がやって来た時、水位は3階の大浴場にまで達し、その時津波の圧力によりホテルの壁が抜けた。津波の圧力はホテルの下階層を通過して行き倒壊は免れたとのこと。その時彼女はたいへん動揺し、当初何をすべきか体が動かなかった。しかし正にその時ホテル支配人の適切な働きかけがあり、彼女たち従業員は勇気を奮い起こして泊り客を安全に逃がすことができた。
津波の直撃に襲われたホテルでありながら宿泊客全員の命を救うことができたのは、支配人の適切な決断があったからだと彼女は言う。他のところでは避難指示系統が働かないままに失われた人命があったと聞く中で、これは尊い奇跡とも言うべきものだろう。
ところで、「ホテル羅賀荘」は今も震災前と変わらずまるで無防備に港に佇んでいる。入り江を巡る防波堤は低いままである。
すでに日本中に知られていることだが、三陸海岸の各地に巨大な防潮堤の建設が数百キロにわたって計画され、長大な土木工事の総予算は1兆円に達すると言われている。かつて私が復旧工事にかかわった塩竈の北にも、高さ10mに及ぶ防潮堤が数キロにわたって築かれたところがあり驚かされた。これに比べ、このホテルの無防備に海辺に佇む姿は、私にはひとつの哲学のテーゼを示しているように感じられた。観光ホテルの在り方として、海との視覚的なつながりを切るような防潮堤を許容する選択肢はない。それぞれの地域にはそれぞれの生き方による津波対策があり、興味深いと思う。
<震災の伝承館が伝えるもの>
今回我々は多くの伝承館・資料館を巡った。伝承館は津波被害の教訓を次世代に残す施設として各所に設けられたもので、震災遺構をシンボルとするジオパークもある。
我々が立ち寄ったところは、「震災メモリアルパーク中村復興展示室」など。いずれもよく工夫された展示があった。多くの伝承館に復元されていた「失われた街並みのジオラマ」の、ひとつひとつの家屋に名前が添えられているのを見つけた時にはいとおしさすら覚えた。有明海岸に残される破壊された旧防潮堤を前にした時は、訪れたものの想像を軽く上回る津波の威力に圧倒された。
だが同時に私にはある思いが重なる。それは、私がかつて復旧工事にかかわり、その当初に発せられた復興の掛け声が12 年を経て静かに人々の印象から遠ざかってゆくのを見ているからかもしれない。この調査において私はその収束点を探りたいと思っていたが、実際に訪れてみると決してそうではなかった。これらの伝承施設は、実は我々に課題を投げかけている。多くの記憶をとどめてもなお尽きぬものがあり、それは次の世代に託されているものと私は思う。
<12年前の復旧工事に駆け付けた岡山の建築部隊>
私がかつて復旧工事に携わったことに触れたいと思う。
あの大震災から3ヵ月ほど経った6月、私の東京の事務所の電話が鳴った。それは私の郷里・岡山の建設会社の「震災復興に行こう!」という誘いだった。「建築部隊は岡山から送るから、設計の方をやってくれないか」という。かつて阪神淡路大震災の時に自分は何の力にもなれなかったという反省もあり、私は二つ返事で引き受けた。
岡山からやって来た建築部隊のあとを追い、私が東京から向かった先は宮城県の塩竈港だった。
震災の日から3ヶ月を経て瓦礫の山は片付きつつあったが、まだまだ津波の痕跡は痛々しく、港に近づくと陸に打ち上げられた大きな漁船が船腹を見せて横たわる姿があった。
海岸を巡る仙石線の高架下を潜って港湾内に入ると突然視界が開けた。私が案内されたところは、津波に流されずに残った大型建物のそのさらに奥に、そこにはぽっかりと空間が広がっていて、辺りには瓦礫が散乱していた。建屋の基礎構造 の一部が露出し、地面は穿たれ、或いは削られたようにうねり、そのまま海につながっているように見える。ずいぶん海面が近いように感じて尋ねると、地震によって70センチほど沈下したとのことであった。
そこで我々が取りかかったのは津波に流された「かまぼこ工場」の復旧であった。幸いにもその場所は行政の定める建築制限を受ける区域(当時民間の先行する復旧工事を制限する区域が定められていた)からかろうじて外れており、この工場の復旧計画は他のどの復旧計画よりも先んじているのではないかと思われ、我々は一日でも早い復旧を目指した。
もう一つ幸いだったのは、建屋が流されているにもかかわらず、かまぼこを作る設備のラインの相当部分が残っていて、それらが盛夏の青々とした草むらの中に集められ、これらを繋ぎ合わせれば使えそうだという。地元の協同組合の支援を受け、我々はあちこち類似の工場を見せてもらい、稼働可能なラインを見学して回った。求められるものは単なる建屋ではなく与圧の仕組みが導入されていた。また、復興への手がかりとして観光バスも受け入れようということになった。
徐々に求められる設計の概要が見えてきた。しかし、復旧のために参照すべき建屋の記録が津波によって失われており、設計は容易ではなかった。敷地も道路もどこが境界かわからない。とりあえずここら辺りと思えるところに当たりをつけて建屋の位置や大きさを測った。あれこれ構造を考えたが、鉄骨の鋼材が手に入るかどうかどうかわからなかった。 観光バスを乗り入れるプラニングには、製造ラインを覗き見ることができるように売店を設け、海も見えるようにした。我々には観光の種になるものにかかわる感じもあった。
ただ、実際にはなかなか進まなかった。都市再建の要は行政であり、復旧においても初めに街区の基本計画がなければ我々は一歩も進めないことが分かってきた。
例えば地盤の高さについて、嵩上げをするのかしないのか。地盤の高さが決まらなければ道路の高さが決まらない。道路高さが決まらなければ仙石線のガード下を潜る大型トラックのアプローチが使えるのかどうかわからない。それらがわからない段階では工場は建てられない。当時の復興に臨む行政の推進力が十分でなかったとやはり言わざるを得ない。
そうこうしているうちに、徐々に震災後の混乱した状態は収束していった。非日常が日常へと移行し、ついに私も地元にバトンを渡すことになり役割を終えた。そうして建屋が建ちラインは稼動した。ただ、この後もこの地域は10年にわたって余震に悩まされた。地震の影響はその瞬間の1回だけでないことが明らかになっている。
今回のJASOの調査ですぐに思うのはこの岡山から復興にやって来た建築部隊のことだった。あの時、建築部隊はいろいろ考えたし議論もした。だが現在に至るも、塩釜の港湾の護岸事業はいまだに工事中である。長大な土木工事の後ろ側にはただ静けさがあり、湾岸の一帯には空き地が目立つ。復興までにはまだ時間がかかると思われる。
現在のかまぼこ工場の姿は、まだ背後の海側には工事中のフェンスが見える。早く完成して、護岸公園につながる日が待ちどおしい。
<久慈地下水族館「もぐらんぴあ」(久慈地下水族館の地下入り口 備蓄量167万キロリットルにおよぶJOGMCの国家石油備蓄基地がこの背後にある。)について。>
久慈は八戸の少し南方に位置する。久慈地下水族館「もぐらんぴあ」があり、その中に防災展示室がある。実はここは震災より前の1997年に作られた巨大地下施設「国家石油備蓄基地」の一部を間借りしている施設で、地下水族館などと共に地上にもその一部を建築している。最後にここに触れておきたい。
久慈が国家プロジェクトとしての石油備蓄基地に選ばれたのは地政学的な理由によるものだが、地下に巨大なトンネルを掘り、日本の全使用量の3日分にあたる石油を備蓄している。この地下トンネルの一部を利用し、「地下水族館」と共に震災を学習する伝承館としての施設が設けられている。訪問者がジオパークさながらのこの巨大な地下構造を覗き見る時、そこで体験できるものには十分なリアリティがあり、観光に科学がうまく組み込まれていると実感できる。また、「北限の海女」や「さかなクン」の展示コーナーもあり、時勢的でもある。
三陸海岸の復興には観光資源としての地元の地政学的優位性が欠かせないと言われるが、この地下水族館「もぐらんぴあ」は、国家戦略に必須の石油備蓄基地に、学習と観光を両立させる施設を組み込むことで、これらの有意性をさらに高めている好例である。地震学習の展示内容が充実されるよう期待したいと思う。
このようなことをつれづれに思いながら調査の旅を終わりにした。
JASO 三島直人
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