能登半島の震災地を4月1日~2日にかけて調査する機会を得た。
被災地はどこも悲惨な状況だったが、今回被災状況の特徴として特に目に留まったもののうち、倒壊した建物とほとんど無傷で残った建物とが混在していること、隣り合わせにあること、について報告する。ここでは寺院の被災状況から民家の被災状況、街区の被災状況について順に記述して行く。
真宗大谷派善龍寺(写真1)
伝統工法による本堂と、その両側に接続される増築棟、増築部について報告する。(前回の地震時にすでに被災していると思われる)
本堂は大きな被害を負っているものの、柱の傾斜角度は僅かであり修復可能と考えられる。しかし本堂の右側に接していた庫裏は倒壊ししている。また本堂の左側に増築されていた水場の屋根は落ち、壁は崩壊している。この被災の状況は、言わば最も古い本堂が残っているにも関わらず、後に増築された新しい部分が崩壊するという一般概念とは逆の現象がある。
善龍寺の背後ビュー(写真2)
本堂はダメージを負いながらも倒壊を免れている。柱の傾きもそれほど大きいとは言えない。しかし、本堂の左右にあった増築部(水場、および庫裏)の建屋のフォルムはみられず、倒壊し残骸と化しているのがわかる。
本堂内部(写真3)
本堂の内部は、柱の傾斜はあるものの、修繕の可能な範囲と思われる。
伝統工法で組み上げられた構造体は、貫構造の採用により地震力に対抗し、大きく揺れても崩壊に至らなかった。いわば免震構造として地震力に対抗できたものと思われる。この寺院建築も、この構造的特徴により建立以来の度々の地震を生き延びて来たものと考えられる。
善龍寺右側の庫裏の現状(写真4)
しかし、隣接する庫裏は完全に倒壊している。入口のコンクリート構造の高基礎が残っているのをみると、この庫裏の部分は、近世になり在来工法により建てられていると分かる。
本堂と庫裏との接続部分。(写真5)
本来はこの部分は本堂よりいくらかの距離を置いて建設されるべきところであるが、(後述する)ここでは風雨を避けるために屋根が繋がり構造体が連絡し接続していたものとみられる。
本堂の左側の増築部分(写真6)
また、左側に増築されていた本堂の水回り部分は、土台を残し崩壊していた。コンクリート基礎にアンカーボルトで土台が留められているため、この部分は在来工法によるものと分かる。壁は落ち屋根は完全に崩落している。
同じ境内にある建物でも、本堂と接続せず距離を置いて建てられていた別棟の建物は、地震に耐えて健全な状態にある。これらは近世に建てられた在来工法である。在来工法の片方は倒壊し片方は残っている。この問題にフォーカスを当ててみる
<考察>
ここから推測される事象。つまり本堂の左右にある増築部分(在来工法)は、それ自身であれば地震に対抗できたと思われるが、本堂と繋がっていたために、本堂が揺れる時の横方向の圧力に対抗することができず、かつ本堂のボリユームに比べ小さかったために、圧力に負け、結果として構造材が破断し押しつぶされたのではないかと想像される。
伝統工法の構造は、許容範囲であれば大きく揺れてもその揺れを許容する。在来工法は、その構造単独であれば、筋交いと基礎への緊結により横揺れの圧力に対抗し、許容範囲であれば倒壊しない。しかしこの両者が構造的に接続されていた場合が問題である。大きな力が加われば、弱い方が破壊されてしまうと考えられる。それぞれが単独であれば無事であったと思われるところ、誤って構造体を接続して増築したことが問題であると考えられる。(庫裏の構造自体が極端に脆弱であった可能性もある。ただし一般的に在来工法は屋根が重い寺院建築のフォルムには不向きと考えられる。)
<提言>
そもそも異種の構造体(伝統工法と在来工法)を安易に接続してはいけないとされる。しかし、我が国の他の地方の寺院も、実はこの善龍寺と類似した状況にあるものが多いのではないか。本堂の脇に水場が増築され、渡り廊下、庫裏などが接続され、この善龍寺と同様に、雨風を避けるためという実用上の要求のために、構造的に深く考察さないままの状況が我が国の津々浦々に存在しているのではないか。早急な見直しが必要ではないか。
曹洞宗本山総持寺経蔵(写真7)
総持寺経蔵は、1,745年建立の伝統工法による堂々たる建物。今日まで周囲に増築は行われていない。左右対称であり、このシンプルな形状が地震に対し幸いしたものと考えられる。周りには倒壊した建物があるにもかかわらず、この経蔵はほぼ無傷である。
伝統工法はいわば免振工法とも考えられる。足元は固めていない。柱を横に貫く貫の構造材による柔構造が、免振構造として働くものと考えられる。柔構造であるので地震時には左右に揺れる。白塗りの塗壁には多くの亀裂がみられる。しかしひび割れ被害だけで済んでいる。左右に大きく揺れた後にまたもとの位置に戻ったものと考えられる。
内部の八角の回転経堂も無事な様子が見て取れる。おそらくこの小構造物も足元は固められていない。地震力に強い力で対抗したものではない
同 芳春院(写真8)
前ページの経蔵に近接する同芳春院は、建物は完全に倒壊していた。
芳春院の構造形式は不明であるが複雑な平面形状をしていたと思われる。仮に近世に建てられたものとすれば、耐震設計に問題があった可能性がある。旧耐震の時代に建てられたものであれば、設計自体に問題がなくとも、耐震診断を行い、適切に耐震補強をしていればこのような倒壊はなかったかもしれない。
曹洞宗大本山総持寺山門(写真9)
巨大な山門は近代になりこの場所に移築されている。大きな地震力を受けたにもかかわらず本体は傾斜も残っておらず構造体は健全である。
地震時に落ちた木格子や羽目板により大きく揺れた形跡が見て取れる。伝統工法により建てられた寺院建築は地震に強いことを再認識させている。
山門の腰部分の剛性を確保する仕組み。(写真10)
伝統工法は、足元を固めることをせず、腰部分はこのような羽目板により、必要な分だけの根回りの剛性を確保するに留めている。全体の構造は、貫の構造耐力により地震力に対抗する。結果を見ると、重たい上部構造にもかかわらずよくバランスさせて柔構造を構成していると感心させられる。
山門の左側の回廊との接続部分。(写真11)
左の写真で、地震力を受けた建物の歪はこの回廊との接続部分に残っていることが分かる。大きなボリュームを持つ山門の揺れと、小さなボリュームの回廊との揺れのぶつかりがここに回廊部分の歪となって残っている。
(山門の右側の回廊は倒壊している。)
同 鐘楼(写真12)
山門の左手に位置する鐘楼はほとんど無傷である。
基礎の石組みが一つ外れているので、この建物も同様に大きく揺さぶられたはずだが、大地震に対抗し無事であった。
(元来これらの伝統工法は、石場建てとも言われ、基礎の頑強さには依存していない。基礎石の上にただ乗っているだけであり、再来工法で基礎にボルトで固定するものと耐震の考え方が大きく異なる。)
同 回廊について(写真13)
しかし、この山門の右手に接続されていた回廊は完全に倒壊してしまった。基礎がコンクリートで造られ土台がボルトで緊結されているので、在来工法で建てられたものであることが分かる。しかもこの回廊は近年新築されたものと言う。耐震設計がなされたはずであるが、この問題は掘り下げる必要がある
新工法の問題
実はこの倒壊した回廊には、別の問題もあったと思われる。
左の写真(写真14)は、同寺院の他の部分の回廊内部である。梁と柱をつなぐ金物を見ると新しく考案された耐震工法を採用しているのではないかと思う。(柱と梁とを接続する部分に三角形の新工法金具が採用されている。)
しかし残念ながら役に立たなかったと考えられる。実証されていない新工法の採用は注意すべし。
回廊の他の建物との接続部分。(写真15)
回廊と他の建物との接続部分は、本来はこのようにすべきである。屋根壁を連続させずに互い違いになり構造体が離れていれば、地震においても接続部分だけの被害で済み、左右の構造体はともに無事である。
(写真16)
工法の違う2つの建物の隙間。伝統工法と、塗り固めた壁構造との間に地震によって隙間が生まれ、大きく揺れたが、左右とも崩壊の被害は免れている
同 閑月門(写真17)
4本柱の非常に華奢な門である。右手の塀との関係で、構造部材の接続がなければ、ここまで被害はなかったかもしれない。
(もちろん単独であればむしろ早期に崩壊した可能性はある。)
<考察>
回廊の倒壊をみて考えられること。山門と庫裏とをつなぐ回廊は、在来工法(基礎をコンクリートにして土台をボルトで固定する工法)によるものとみられる。この回廊が、庫裏にどのように接続されていたかの詳細が分からないので断言はできないが、今日の常識的な見方では、近年に造られた在来工法による建築物が、単独でこれほど無残に倒壊するとは考え難い。倒壊の原因は前述の善龍寺と同様に、巨大なボリュームを持つ山門や庫裏の揺れに直接押されて、華奢な回廊は対抗できず負けてしまった、その結果ではないかと思われる。
回廊の構造の在来工法にあるいは新工法のそれ自体に問題があったわけではない。これらの結果が工法の否定にはつながるものではない。
ただし、新工法については、その工法の実証はどのようにしてなされたのか疑問が残る。在来工法は今日までに何度かの大地震を経て発展し、今日の基準は2000年に大聞く変貌を遂げた。その時点では巨大なボリュームの建物への接続は考えられていない。(そもそも禁止されている)
しかし、ここで使用された新工法はまだ大地震被災の検証を受けていないのではないか。大地震による被災それ自体が実証実験であり、新工法であればより慎重に捉えるべきと思われる。
来工法の耐震性能について-その1【成功事例】
周りの建物がほとんど崩壊しているのに対してこの家の耐震性能は健全であったと思われる。
この部分の筋交いが1本破断していた。筋交いには上下とも金物で固定されており、この筋交いは水平力による圧縮時に外部に膨らみ、その次の引っ張り時に限界がきて破断してしまったもの。別の見方をすると設計限界まで頑張れたという好例である。
今日の在来工法の耐震基準で、きちんと耐震設計した建物は十分に対抗できる。
2000年以前の在来工法の壁の崩壊例
この建物の倒壊の原因は、筋交いがまるで役に立っていないことにあると思われる。200年以降は、筋交いを金物でしっかりと留め、筋交い自体の破断するまで建物を支え続ける仕組みである。
在来工法のグレーゾーンでああるが、筋交いに金物で止められていない場合がある。
この場合は、直交する2方向の筋交いが金物で止められていないために地震時に外れて大きく揺れ、外壁が落ちてしまった。
在来工法の耐震性能について-その2【失敗事例】
消防団の車庫
崩壊は免れているが、車庫入り口の上部にある下屋部分が傾き、
壁が落ち、この部分が特に大きく揺さぶられたものと考えられる。
基礎を見ると、この建物の構造に問題があることが分かる。
写真の左下部分、つまり下屋の部分に基礎が連続していない様子が見て取れる。また、その時の揺れがどれほど大きなものであったかは、基礎アンカーが壁から飛び出していることから想像できる。大きく揺れて一度この高さまで飛び上がったものと考えられる。
<考察>
この建物は、地震により大きく揺さぶられた時、その揺れの大きさは本体より突出している部分、つまり下屋の部分に最も大きく影響を及ぼす。この時基礎が連続していないことから、この揺れに対抗することができず、壁が落ちたものと考えられる。屋根が傾いたのは、土台が基礎から離れたからと思われる。なお、この周りには地盤の液状化はみられない。
<教訓>
下屋などの凸部の構造計画は注意しなければならない。基礎の一体化は必須である。地震の揺れは建物の凸部分により大きく加わる。
耐震性能のあるなしで、地震後の生き残りに絶対的格差がみられる。(写真)
隣同士でありながら、片方は崩壊し、片方は無傷である。耐震性能の優劣での差は絶対的に大きい。この格差が無残にも可視化されていると思う。
通り面して、崩壊した家屋と、ほぼ無傷の家が隣り合っている。左側の家屋は1階の耐震性能が弱かったために2階のみ残った状況である。右側の手前の家屋は家形の形態を留めていない。耐震性能の優劣の格差が可視化されて表れている。
廻りがほとんど倒壊している中で、この2階建ての部分だけが残っている。左手前の残骸は、後に道路復旧時に散乱した残骸を積み上げたもの。耐震性能の差がこの結果に表れている。
左右の家屋の耐震性能の差
左の家屋は、玄関の下屋部分が破壊されている。凸出部に大きな力がかかったものと分かる。しかし、右の家屋は、同じく下屋が出ている形状であるが壊れていない。この差は、この建物の耐震設計の優劣であり、耐震性能の差に他ならない。
<考察>
同じ街区の隣り合う民家どうしでも、その建物の持つ個別属性としての耐震性能の差で、生き残るか、崩壊するかが決まる。その結果の格差は重大である。
この状況を、以前の大地震と比較してみると、以前の大地震では家屋の倒壊はむしろその地域特性、すなわち
しかしここに大きな問題がある。現実的な問題は、被災前の街には多くの耐震性能の劣る家屋が、さらに耐震性能を診断する価値もないと思われる建物があり、健全な状態であるものとそうでないものも入り交じり、耐震化の必要性の把握は非常に難しい。これに加え過疎化が進み、財力が不足している。一旦被災し、街のコミュニティが失われてしまえば、財力もなく絶望的となる。この現実の問題を、我々は深く受け止める必要がある。
<提言(案)>
能登半島の被災した家屋のうち、復旧の可能なものは残念ながら非常に少ないと考えられる。たとえ公的支援を受けるにしろ地域の経済状況や人口過疎から見てたいへん難しいと考えられる。また寺院についえ言えば、宗教建築は自力で復旧の道を探ることになり、地方の財力のない寺院は遺棄される可能性がある。
この状況には、復旧・復興への大いなる知恵が必要である。
我々はかつて東日本大震災において反省がある。復旧・復興を一大事業としてとらえ、結果としてずいぶん方向違いの事業や、後になってみると無駄になった事業を行って来た。ここにおいて、今日まで自然発生的に生まれてきた集落であり家屋であるから、人の感性は揺れ動き、今後どのように復旧すべきか、支援すべきかの判断は非常に難しいことが分かる。復旧・復興は非常に難しいテーマであることを鑑み、一般に行われる短期での支援計画ではなく、長期で行うべき事業であることを考えに入れる必要がある。
私はかつて仙台塩竃の復旧工事に携わった時、助成金を得て設計を行った。しかし当初描いた設計は年月の経緯とともに見直しが必要となった。実際に10年の歳月を経緯して目的の途中での様々な変節もあった。復旧・復興の難しさ困難さを考えればむしろ当然でもある。このことは、少なくともこれらにかかる助成は、単年度制ではなく、10年以上の長いスパンの事業としてとらえる必要を表している。
また、日本全国にまだ無数にある寺院について、今度の能登の被災状況で明らかになった事象すなわち「不用意な増築が倒壊を招く」の現実を見て、全国にある同様に増築を加えられた寺院建築について、耐震診断の必要があることを喧伝すべきである。多くの寺院にはまだ全くよく認識されていないままの異種構造の入り交じり状態がある可能性がある。公的な寺院への耐震助成は一般に行われない。これらのうち財力のないものへの助成は、助成の理念の根本に立ち戻り、中央ではなく地元の人材を用い、長いスパンで考える必要がある。
2024年5月30日
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