せたがや道楽会・街歩き&古道探索
昨年十一月、秋も深まった晴天の日、東京・原宿の街を、せたがや道楽会の藤山さんをコーディネーターとして歩いた。 水先案内人をお願いした藤山さんは、原宿生まれ、原宿育ち。近年原宿は若年者の街のイメージもあるが、かつての古道の交わるところでもある。新しいものと古いものの両方の混じる街。果たしてどこに連れて行ってもらえるのか。朝早い原宿駅前をスタートした。
上の写真は五輪橋の西側にある親柱の装飾。オリンピックを記念し「世界はひとつ」とのメッセージのこめられた地球儀が飾られている。 この橋を渡って代々木公園に入る。
代々木公園に入り、すぐ右手の明治神宮寄りに米軍ハウスが1棟保存されている。ゆったりとした間取りが伺える木造家屋の平屋。これは、戦後この地が米軍の接収地であったことを物語るものである。当時はワシントンハイツと呼ばれていた。このことが今日の原宿の性格が形作られるその始まりであると、藤山さんは言う。
①、原宿は米軍の摂取地であったものの、他の米軍基地周辺と異なり、中位以上の軍人家族が住んでいたため、原宿の街は彼らとの共存による穏やかな街つくりが生まれ、その購買力で潤った。今もあるオリエンタルバザーやキディランドは、こけしなどのみやげ物を販売して人気だったという。
②、また、東京オリンピックが決定的に街の発展に資した。ややもすれば米国一辺倒のバタ臭さい街になったかも知れなかったが、そうならなかったのはオリンピックが国際的な意味付けを街に与えたためである。その背景に明治神宮が100年の森つくりを成功させたという、その深遠な神宮の持つ資質に影響を受けていることも確かなところだと思われる。
③、もうひとつ、戦後のPTA活動の一大成果としてこの街から風俗を廃し、文教区化に成功したのも大きい。他の街で普通に見かける風俗やパチンコのない風情はこのためである。藤山さんにはこの後、通っていた小学校にも案内していただいたが、地元生まれの原宿愛が感じられる。
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代々木公園には陸軍練兵場であった時の記録も残されている。園内を少し歩くと、大正天皇が陸軍を閲兵されたと記される「閲兵の松」があった。 樹齢を考えると若干疑問もあるが、と藤山さんは当時の様子を物語る。明治四十三年この地に陸軍大尉・徳川好敏が初めて複葉機で飛んだ。ライト兄弟から七年しか経っていない。藤山さんによれば、数万の群集を前に、練兵場を僅かにジャンプした機は、U字型に弧を描いて飛び、見事に着地したのであろうとのことであった。(諸説あるらしいが・・・)
表参道探索:
ケヤキ並木が美しい。戦後7本だけが残ったところに再植樹し、今ではかけがえのない街の代名詞となった。街並がとても豊かだと感じられるのはこの緑の都市資産があるからだ。明治神宮の森には、100年まったく人為を加えない自然の森を抱くことに成功し、稀有の大自然を作り出している。街の活性化に緑を植える施策の効果を感じる。同行者に議員秘書氏がおられて、世田谷の街並みへの植樹を提案されているとのこと。まったくの同意である。
神宮前交差点に出ると、現在は奇怪なファッションビルに建て替わってしまったが、かつてここに原宿セントラルアパートがあり、この著名なアパートに住むことが文化人の証であった時代が懐かしい。 その後、キャットストリート(渋谷川の暗渠がいつの間にかファッションストリートに変貌している))をぶらぶら散策し、昼食を挟んで表参道にもどる。人目をさらう斬新なデザインの店舗や、行き交う観光客、外国人、華やかなファッションやガラスのオブジェに目を見張る。
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せたがや道楽会は、本来の趣旨は古道探索を趣味にする集まりであり、後半はこの趣旨に立ち返り、鎌倉道が原宿に入るところを歩いた。新しい街にも古い故事に由来するところが多く残っている。
熊野神社前を通り、千駄ヶ谷につながるところに「勢揃坂」がある。八幡太郎義家が後3年の役で奥州に出陣する際に軍勢を勢揃いさせたという故事に由来する。ここまで歩いて解散となった。
今回の街あるきでは、藤山さんにたくさんの資料を用意していただいた。藤山さんは、趣味で街歩きのアプリを開発しているとのこと。いずれ完成されるのを楽しみにしたい。氏の開発するプログラムなら、一味深い掘り込みのある魅力を、今日の原宿を色どる多くの若い人たちにも知ってもらえるのではないかと思う。
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