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Architects Office
平成30年12月2日
鎌倉古道を歩く
小野路三つ又の関谷の切り通し
鶴見川の少し北方に残る残存遺構
新田義貞が鎌倉幕府討伐軍を進めている時に掘らせたとの伝承がある鎌倉井戸と、七国山の碑。
馬場 さんの解説に聞き入る
小野路宿の里山交流館で昼食を取る参加者たち
12月2日の朝、馬場さんをコーディネーターとして鎌倉古道を歩いた。
今回は、鎌倉から高崎に延びる鎌倉古道の上道といわれるところの一部。馬場さんは鎌倉古道を総て走破されたそうだ。前回の夏の暑い盛りに歩いた1回目に続いての2回目となる。町田駅から出発し、途中までバスを用い、前回より少し先の約10キロほどの道程を、歴史解説や発掘の裏話など伺いながらゆっくりと歩いた。
馬場さんの勧める古道の歩き方は、まず目を瞑り、電柱や民家を消し去り、イメージを鎌倉の時代に飛ばし、それから歩くこと。さすがの民族学者。
道中の所々に残る<”残存遺構>を辿り、鎌倉武者の駆け抜ける騎馬の絵姿を思い浮かべながら歩く。「鎌倉古道」とは、鎌倉時代のもののみを指し、それ以降の鎌倉に続く道を皆まとめて「鎌倉街道」と呼ばれているものとは少し異なる位置づけとなる。
興味深い話を伺った。平成2年ごろからの鎌倉古道の発掘。これにより明らかとなった古道の断面構造。みやた・たろう先生が(御存命と伺いました)平成10年に発表された挿絵を見せていただいた。
古道はU字型の断面を持ち、小穴(ピット)が底面、側面、その上部のテラス面、さらにその上部の土手上の道にまで規則正しく並んでいたそうだが、そのピットの使い方の想像図である。同様の構造は全国の古道にも見られるそうだ。先生はそれを、いざ鎌倉と駆け上がる、その戦時に於ける兵站のためと考えられた。その結論に至ったプロセスに、ロマンを感じないではいられない。
鎌倉時代の宿場街であった小野路で昼食を取り、最後は多摩センター駅まで帰ってきて、マックでしばし歓談のあとお別れした。
今回は10名の参加。
*挿絵を記載できないのが残念です。
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