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JFdesign

​建築の耐震化への取り組み

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究極の免震構造マンション

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耐震補強は構造だけではない。補強すれば終わりではない。

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耐震補強工事
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コンクリートの不良もあり、

築後40年で建て替えに至った

東京アパートメント

世田谷「耳袋」に記載 (原稿) 

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建替えはままならない。

耐震補強は難しい。

放置するか、あるいは・・・

(段階補強)

​🔳 ​阪神淡路の大震災

    1995年阪神淡路を大地震が襲った。この衝撃的な大災害を忘れることはできない。震災後に私がはじめてこの被災地に入った時、倒壊した建物や、その足元の太い鉄筋がまるで飴細工のようにぐにゃぐにゃ曲がっているのを目の当たりにし、その時の衝撃に、設計者として激しく心が揺さぶられた。私はコンクリートは硬いと思っていたが、それ以降は粘土だと思うようになった。また木造家屋の倒壊が激しかった。古い木造家屋がどれほど大地震に弱いものか、初めて知った気がした。通常の地震ではここまでは破壊されない。大地震の被害はすさまじい。一面がれきの山を見てその下にいかほどの人命が失われたか。その時はほうぜんとして想像だにできなかった。それまでの私は単に建築デザイナーだったが、一時の繁栄に弄ばれる常識はこの日を境に覆されたと思う。

 

     2011年、東北地方を未曾有の大地震が襲った。その直後に、私は郷里岡山の建設会社と共に、塩竈のかまぼこ工場の復興事業に参加した。私は設計者として東京から、建設会社ははるばる岡山から駆け付けた。被災後の6月に現地に入った。復旧計画は決して単純なものではない。数限りない復興計画があり、数限りない人たちが復興に再建に取り掛かったが、私もその中に加わった。ただしかし、その中心になる行政の復興支援が立ち上がらない。また経済的な基盤が固まらなければ何も進まない。広大な被災地であるがゆえに現実は厳しく、支援する側にも状況は非常に難しい。障壁は高い。私の認識としてこの時の反省は大きい。この自然界の大脅威に対して、人は負け戦だったもかもしれないと思う。復興は個人の頑張り大きく超えるという経験だった。⇒ 月間リフォームに記事を記載

  2016年4月、熊本で大地震があった。そこは従来は地震は来ないといわれていたところ。この時私はすでに耐震化を業務の一部としていたが、それでもむしろ新しい建物さえも多く被災しているという状況に驚いた。これが現実であるとの思いに至った。予想はされていたが、実感としてそのようには言いきれてなかったことが悔しい。ただし、耐震技術の壮大な検証が行われたとも考えられる。地震予知はまだ先としても、耐震技術には貴重な臨床データを得たものと思う。旧耐震の建物の脆弱さ、今後は新耐震の建物に対しても見直していきたいと思う。これについてはJASOの研究会でも進行中であり、私なりに少々期待している。

  2024年1月、能登半島で大地震があった。私は4月1日にJASOの調査団に加わり被災地を訪れた。

    能登半島地震調査団の報告「考察と提言」(出版用原稿)

  

                     

 

■  NPO法人耐震総合安全機構<JASO>の耐震化を推進する活動に参加しています。建物の耐震化についてのご相談はいつでもお受けします。

​ 三島直人

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塚田免震マンション⇒

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