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震災復興事業

執筆者の写真: misimamisima

更新日:2023年6月25日

塩釜の復興に携わって・・・・・・

  新潟を襲った震災の復興住宅の取り組みを聴講した。(JIAシンポジューム・三井所氏)この取り組みは、復興事業において商業主義にぶれることなく対抗して、建築の良心を体現したすばらしい事例だと思う。山古志村では、地域に根ざす大工を指揮し、多くの協力者に恵まれ、他の地域の事例とは明らかに異なる成果を上げた。

  しかし、今回その詳細を聞いてみて思うのは、山古志村での成果がその後に引き継がれることがなかったのは何故なのか、ということである。三井所氏だからこそできたのであったのは納得はできたが、かえってそれは足らないことを際立たせて残念なことでもある。

  氏は、復興住宅はモデル化して無個性になってはならないと言う。その地域に根ざした建物にならなければ、復興はないと言う。その通りの成果ではあろう。しかし、次に続く復興住宅の建設につながっていないことを見ると、一方で残念と言うべきであったった部分もあったのではないか。



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  私は、東海沖大地震の復興事業に参加した。その時の経験から、復興事業の内側になる多くの納得できない山のような問題に、個の力ではどうしようもないものがあったと、今もって思う。山古志村でのこのような先例がありながらも、(そもそも特殊な例ではあるのだが、先例からは紐解かれるものが見つからないことも原因であると思う) これを先例とすることもなく、このとき、これにかかわる技術者の頭の中が真っ白だったかもしれない件を3つ挙げてみる。



-----頭が真っ白であったこと、3つ。-----


1)、海岸線に剃刀のような冷たい堤防ができた。


まるで刑務所のように見える堤防が造られた。かみそり堤防と揶揄される。二度と御免だという地域の方の気持を汲んでも、もっと冷静に対応すべきだったのではないか。海の街から海が遮断されてしまった現況には失望を禁じえない。(なぜこんなものに決まったのかは、実は分かっている。それは家族を失い後悔の念に駆られる地元民に深く同情した一人の影響力の大きな専門家の存在による。他の意見がこれに同調する声の大きさに制圧された結果である) → たとえば荒川の氾濫から東京都を守るスーパー堤防の構想があるが、ポイントは高さよりも幅にあり、堤防上部を街として使用するもので、川面と街とを遮断することはない。様々な問題を乗り越えた東京都を守るための100年の知恵だと思う。


2)、復興住宅は特徴のない焼き直しの残念な仕様。


ここは住宅施策としての世紀の一大プロジェクトの場面ではなかったかと思う。現代の名だたる近代都市には、過去の大災害を機に一挙に都市整備ができたところが多い。ここもまた次の世紀に向けての画期的な変革を呼ぶ世紀の街作りの可能性があったはずである。たとえば、地方都市とは何か、復興の街とは何か、あるいは停滞の時代の街、次の産業の変革、高齢社会、など壮大なテーマが待っていてこれらを見守ったはずであった。

   しかし、現況はそのような構想を何も持たない、ちょっとだけよいと思われる共同住宅が建ってしまったに過ぎない。衆目を集めており、今後の街つくりの趨勢を表すチャンスだったのに、残念ながらそういうところは感じられない。そこには未来が見えてこないし、これから先もおそらく何も無いと思われる。


3)、産業が街をつくるという基本が見えない。


地場産業の復興はいまだ闇の中だ。漁業は躍進のきっかけを期待したが果たせず、新日鉄釜石も帰ってはこない。実際には、先に住まいが作られて、これから先いったいどうやって暮らして行くのかわからないままである。


   たとえば漁業。漁業の積年の問題が解決できたかもしれない。手を打つチャンスであったのに、何もできていない。

  漁業の大問題とは・・・・・。日本は非常に恵まれた魚場があるのに、乱獲し、既得権益に縛られ、ノルウエーに比べて漁民が貧しいままである。その理由を誰も知らないが、これは間違いなく間違った道を歩んでいるからである。欧米を見習い、漁業資源をはぐくみ、ノルウエーのようにすれば、漁業の街は非常に豊かな町に変貌するのはまちがいない。

  これに手をつけることができない政治の貧しさが、残念でならない。

   

(福島)原発の街の今

  福島のことに少し触れる。


  私は仙台塩釜でかまぼこ工場の復興事業にかかわったので、昨年再び訪れてみた。塩釜港の復興は進んでいるとは言えない。前途多難と感じる。それでも被災地としては運が良かったと思うことがたくさんある。塩釜には産業基盤があるのがもっとも大きいと思う。すでにその痕跡はモニュメントとして残されている程になり、街はゆっくりとであるが復興を果たしつつあるのかもかもしれない。


   しかし、その岐路、未だに通過することしか許されない福島の原発の街を訪れた時、そこにある風景は、塩釜とはまったく異なっていた。大災害の跡ではない。人為をこえた巨大な災害の跡という点では同じでも、放射能という目に見えない脅威によって、まだ誰も知らない何かが、静かに行われつつあるような感覚にとらわれる。


   帰宅困難区域の内側を車で走った。大型トラックだけが行きかう海岸近くに一軒だけ残された家屋があった。この道の先には原発の工事のために接収されたJビレッジがあり、今年度中には元の持ち主のところに戻るらしい。少しづつ復興は進んでいると言われる。この家屋も遠からず取り壊されると思われる。今まで経験したこともない規模で行われる事業を見て、ただ、この先が見えていないのではないかと気がかりである。

   

   復興事業について思いだされること。私はひとつの巧妙を知っている。

   復興事行に岡山からは馳せ参じた建設会社の岡山弁が地元の東北弁にいいリズムで調和を生んでいた。方言のもつ力だろうか。誰かこれをクローズアップしてもらえないだろうか。

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