東日本大震災の時、私は復旧事業に携わった。今年の2024年1月1日能登半島で大地震が起こり、その復興事業が待たれる中、少し振り返ってみる。
あの東日本大震災から3ヵ月経った日、なかなか進展しない福島の原発事故処理に心を痛めていると、事務所の電話が鳴った。私の郷里、岡山の建設会社の友人から「一緒に復興に行こう!」という。建築部隊は岡山から送るから、設計の方をやってくれとのこと。私は、かつて阪神淡路大震災の時には何もできなかったという反省もあったので、その時すぐに二つ返事で引き受けた。
後日我々先方隊の向かった先は宮城県塩釜港だった。3ヶ月経って瓦礫の山は整理されつつあったが、港に近づくと陸中に取り残された木造船の異様さが目に飛び込んで来る。建設会社の用意した車で、塩釜市を横切る仙石線の高架下を潜って港湾内に入ると突然視界が開けた。案内されたところは、残された大型建物のさらに奥、ただガランとしていて、建屋の基礎構造の一部が露出し、掘り起こされ、或いは削られ、地面はうねりそのまま海に繋がっているように見える。ずいぶん海面が近いと感じて尋ねると、70センチほど沈下したらしいとのことだった。
そこで私が取り掛ったのは、津波に流された「かまぼこ工場」の再建だった。ただ再建するのではなく、せっかく新しく建てるのだから今度は観光バスも受け入れたいという。幸いなことにその場所は行政の定める建築制限を受ける区域(当時民間の先行する復旧工事を禁じる区域が定められていた)からきわどく外れていて、この工場の建築計画は他のどの再建計画よりも先行しているのではないかと思った。
もう一つ幸いだったのは、建屋が流されているにもかかわらず、笹かまぼこを作る設備のラインの相当部分が使えそうな状態で残っていて、夏になり草ぼうぼうの中に集められており、あとは動力と制御装置をステンレスの箱につなげば何とかなるという。地元の産業組合が皆でそれを助け、流されたこの工場の再建に協力し、我々はあちこちの類似工場や稼働可能なラインを見学させてもらった。工場内の与圧の仕組みをはじめ、新しく観光バスを入れる目論見など、だんだんとその形が見えてきた。
ただし容易ではなかった。一切の参照すべき建屋の記録は流出していることに加え、敷地も、道路も、どこが境界か分からない。とりあえずここら辺りと思えるところに当たりをつけ、建屋の位置や大きさを測った。構造は長スパンの鉄骨プレハブを想定したが、観光バスを入れるプラニングは難しかった。製造ラインを覗き見ることができるようにした売店を設け、海も見えるように考えた。じかし、実際にその鉄骨や杭の資材が用意できるのかわからなかったし、沈んだ地盤をどのくらい盛り土するのかもさっぱり分からなかった。そしてもうひとつは言葉だった。これは今振り返って最も思い出深いもの、思い出すたびに心がほっこりするものである。
私が勧めようとしてもかなかなか大切なことが伝わらない時、太陽がもう山の端に隠れそうな時、だがそこで驚いたのは、岡山からやってきた岡山弁を話す建設部隊は、なんと塩釜弁に対抗できるということ。“ぼくとつ”としたズーズー弁に少しも負けずに岡山弁で話が通じている。「ホーホー、ホーホー、」とゆっくりと抑揚を効かせ、音のリズムが似ているらしい。私も元は岡山弁だったが、東京に来て暮らすうちに知らず早口になりイライラしているのに気が付いた。
ただ、後で思うとこの時からやはり「復興」という目標を掲げながら、それをもし戦いと言うなら、それは負けつつあったのかもしれない。復興事業は誰が勝り負けをいうものではないが、この工場の再建は掲げた計画通りには進まないものだ。ひとつ問題解決しようと取り組んでいる間に別の問題が我々の上を通り抜けていく。
理由を上げるときりがないが、資金問題は野暮なので割愛するが、まず港湾全体の復旧計画がまとまらなければ、その全体計画の中に収まらなければに進めないことが最も大きいと思う。地盤の嵩上げ高さが決まらなければ道路高さが決まらず、仙石線のガード下を潜るアプローチが使えるのかどうか分からない。大型トラックを受け入れるプラットホーム高さも決められない。そうこうしているうちに地元の体制が整ってきて、非日常が徐々に日常へと移行し、事業は地元に受け継がれた。
ここにひとつの反省がある。
我々は、この時の復旧・復興を一大事業としてとらえ、結果としてずいぶん方向違いの事業や、後になってみると無駄になった事業を行って来たと思う。これまでの我が国の実情は、今日まで自然発生的に生まれてきた港湾に存在するかまぼこ事業の工場があり、事業の発展があったが、これらは決して合理的に計画されてできたものではないと思われる。そうであるから、この大震災を経て人の感性は揺れ動く。今後どのように復旧すべきか、支援すべきかの判断は決して簡単ではなく非常に難しいと言わざるを得ない。
このようなことを感が合えると、復興は非常に難しいテーマであることは明らかである。復興の計画は一般に行われる短期での支援計画ではなく、長期で行うべき事業であることを考えに入れる必要がある。
かまぼこ工場は建ち、工場は稼動した。しかし肝腎の復興はまだ夢の中を漂っている。今もなお港湾の一帯にはアキ地が目立つ。その後10年目に塩釜は再び大きな余震を経て、大規模な港湾整備事業はまだその渦中である。
その後、私は建物の耐震化に深くかかわるようになった。今回 地震発生から12年が経過し始めて東日本大震災被害復旧状況調査に加わった。宮城県塩釜港の復興はまだ夢の中だが、私個人としては、あのインパクトは12年前の復興の掛け声が静かに印象から遠ざかって行くのを見ている。究極のところ、私は復興事業はみな負け戦だったのではないかと思う。そのように思うばかりだったが、ただ強く感銘を受けたことがあり、我々の建築を考えるうえでよい機会だったと思う。
岡山からやって来た無償の建築部隊のことに思いが繋がります。それは無償ではないかもしれませんが、しかし日本中の何とか助けたいという思いが集中したはずです。これからもそこに触れたいと思います。
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